kutidasikutibasiの日記

個人的な日記

価値観についてのメモ

自分は、考えを人に話すのが好きではない。

 

なぜなのか考えていたのだけれど、結局の所価値観の問題かもしれない。

 

例えば、私は何度か酷い失恋をしたことがある。

しかしそれについて詳らかにすれば「君が悪いから態度を改めなさい」と十中八九言われるのはわかっているからだ。

もちろん悪事を働いたりはしていないが、好意の表し方として共感を貰えないだろうと思う。

 

そこまでわかっているなら普通のやり方をすれば良いと思われるだろう。

 

しかし、後天的なのか先天的なのかはわからないが、普通にこれをしたら喜ぶだろうなという事をして、自分に好感を抱いた人間を好きになれないのだ。

例えるなら、ゴキブリをプレゼントされて喜ぶ人に対して、こいつ趣味が悪いな。と感じるような物だ。

 

まあ実際には、趣味が悪いとは思わないが。

もしかしたら、自分と違う価値観の人間が怖いのかもしれないな。

 

例えば、人によっては喧嘩をして意見を交わした方が仲が深まると考える人もいる。

だが私は怒られるのが苦手なので、そういうやり方は好きじゃない。

 

他人に対する恐怖。

もしかしたらそれが一番私の交友関係を狭めているのかもしれない。

 

私はとても怖がりだ。

変わった事が起きるとすぐにショックを受ける。

最近になるまで自覚は無かったが、現実に対していつも怯えていたのはずっとだ。

どれくらい怯えていたかといえば、いつ何時自分を殴りつける人が現れても、驚かないように心構えをしていた。

 

今になって考えてみれば、それは私の受ける心理的なショックが、肉体で殴られたのと同じ苦痛だったという事なのかもしれない。

 

最近はhspという単語も流行っている。

ただ私はその分類はそんなに好きではない、曖昧だからだ。

ついでに言うなら、貴方の性質はこうだから気にしなくていいですよ。と言われても、気分が変わるわけでもないからだ。

 

怖いものは怖いし、自分が何に怯えているのかもわからない。

ただ、ずっと前から自分を観察しては、こうして考えているうちに癖とか方向性がわかってきて、ようやく前よりもマシになったと。

自分を変えたというよりも、ショックな事が起きにくい環境を探し続けている感じだけれど。

無理なものは無理だ。

自己矯正は自己否定と紙一重というか、最終手段でいいんだよそんなの。

やりすぎて逆に真っ当な事を言う人が嫌いになったから。

 

まあ、しかしなるほど。

価値観が違う人間を嫌うのは気がついていたけれど、その理由が恐怖心だとは考えていなかった。

どうしたらいいんだろうか。

 

犬に吠えられても、例え噛みつかれてもいぬの事を嫌いになったりしないけれど。

誰かに君はおかしいと言われたら、その人とは2度と目を合わせる事は出来ない気がする。

 

正しいか間違ってるかは関係ないのだ。

そもそも価値観なんて千差万別、好きなものを好きなように信じれば良い。

しかし、理解していても私は何かを言われたら泣き出す自信がある。絶対に。泣いて怒る。理不尽に。

理屈じゃないからだ、理屈の話なのに。

 

困ったな。

でもまあ、ひとつ発見があったのだから良しとしておこう。

夜と霧から考える人が苦しい時最後にできる事

これはいつか書こうと思っていた内容だ。

最近自分の精神の状態が特に思わしくないので、まとめる意味も込めて書いてみる。

 

普段の文章は人に読ませるつもりがないけれど、これは必要な人に届けばと思う。

 

夜と霧は精神科医フランクルが書いた、ドイツの強制収容所の体験記だ。

つらい目に合ったはずだというのに、非常に淡々と描写されているのが凄い所だ。

また、自己の精神状態に対する観察も冷静で客観的に書かれている。

 

この物語の中で有名な考え方がある。

 

世界に何かを望むのではなくて、世界が自分に何を望んでいるのか、考えなさいと言うのだ。

 

難しいことではなくて、この世界で自分が果たしたいと思う事を指している。

家族を守る事であったり、自分が叶えたい夢であったりだ。

 

極限状態で明日の生死もしれない中で、彼がこの考えを疲れ果てた囚人の仲間に伝えた所、彼らは希望を取り戻して生き残る事が出来たそうだ。

その話を美談として、人は極限状態でも希望があれば生き残れると教える物も多い。

 

彼らが生き残った事は素晴らしい事だ。

ただ、それでも、それは成功者バイアスでないとは言えないだろう

 

苦しみの只中にいる人には、救われた人の言葉は届かないのだ。

特に、救われる希望が無い状態でいる時に、こうすれば救われるという言葉は毒でしかない。

助かりたいと思うほど、苦しみは増すのだ。

場合によっては、悪意のある人間の言葉によってもっと落ちてゆく事もあるだろう。

 

だから、少し違う考え方をしてみようと思う。

強制収容所での体験は全ての絶望の条件を有している。

命の危機にさらされ、人として扱われず、明日がどうなるかわからず、自分では状況をどうすることも出来ない。

ここで狂わずにいられたら、それだけでも凄い事だろう。

 

しかし、フランクルは狂わなかった。

彼が生き残ったのは、きっと偶然か、それとも彼が笑い飛ばした神の思し召しだろう。

考え方次第で人は生きたり死んだりしない。

しかし、彼の考え方は苦しい状況にいる人間に必要になるはずだ。

 

私とかね。

さて、役に立つだろうか。

 

彼がしていた中で一番簡単なのは、妄想だ。

妻と幸せに過ごしている情景を思い浮かべる事。自分がここでの体験を人々に語る講演会を行っている姿を想像する事。

バカバカしいと思うかもしれない。

正直、私自身がふざけるなと言いたい気分だ。

そんな気休めで何が良くなるっていうのだろう。思考で世界は変わらないのだ。

しかし、それでも思考から全てが始まるのも確かだ。

幸福を夢見ないことは、苦痛を許しているのと同じだ。

 

私も最近は現実に押しつぶされて、夢を見なくなっていた。

荒唐無稽な物でもいいから、考える所から始めるべきかもしれない。

 

 

もうひとつ彼が行った事は、他者を思いやる事だ。

とはいえ少なくとも私は、孤独を感じている。同じ苦しみを分かち合っている仲間は、見当たらない状況だ。

 

だから少し、捻ってみよう。

この本を読んだときに驚いた事がある。

 

彼は仲間と話し合う機会があったときに、考えを披露する。

その言葉によって、仲間は涙して幾分か救われるのだ。

その時にフランクルはこう考えた。

自分にはこのようにして、何かをできる機会が他にもあったのに今この時までできなかった事を申し訳なく感じたと言うのだ。

 

収容所のなかで人は、苦痛と恐怖と苛立ちに苛まれている。

しかし、彼は人間らしい心を失わずに他者を思いやる事が出来ていた。

 

人によっては上手く想像出来ないかもしれないが、苦痛と恐怖に苛まれていると、他者など二の次になる。

それどころか、感じる苦痛と相まって煩わしくすら感じるだろう。

人としての心を保つのはとても難しいのだ。

 

先程も書いたように、私は思いやる相手を見つられない。

だからここで重要なのは、みすみす人間性をうしなわないという事だ。

 

夜と霧の中で、フランクルはこう書いている。

どのように苦しめられたとしても、全てを奪われたとしても、人は現実に対して「どのように振る舞うのか」という自由だけは奪われない。

その振る舞いが人間性であり、人の尊厳である。

 

私の主観も入っているがこのような内容だった。

 

まあなんと美しい言葉か。

例えばこれを言ったのが、どこの馬の骨ともしれぬ存在なら私は一笑に付しただろうな。

 

しかし彼は実際に見たのだ。

空腹で、自分が死ぬかもしれないような状況で他者にパンを分け与える人を。

 

 

もし本当に苦しい人が居たら、忘れないで欲しい。

自分では何も選べない時でも、自分がどうしたいのかと考える事。

自分は現実に対して、どのように振る舞う人間なのかは選べるのだ。

 

何も変えられないかもしれない。

私も沢山の事を変えられなかった。

 

それでも、全ては思考から始まるのだ。

 

 

最後にもうひとつ、私が一番覚えている場面の事を書こう。

 

収容所から生還したある日、フランクルと仲間がまだ新しい麦の芽がでた畑の近くを通りかかった。

そうすると仲間は、わざわざ畑の中を歩いて麦の芽を踏み潰してゆくのだ。

それをフランクル咎めると仲間は「自分がは何もかもが奪われた、それなのに他人から少しでも奪うことは許されないのか!」と憤るのだ。

 

これに対して、フランクルは精神的ショックによる原始性の発露だと書いていた。

 

でも私は、麦を踏みつける彼の気持ちがわかる気がする。

きっと彼はそれを見た時、奪われなかった未来の幸福な姿を思い浮かべて、やりきれない気分になったのではないだろうか。

 

もしも、という言葉は一番人を苦しめる。

 

でも、もしもその事で彼の気持ちが救われるなら、私は邪魔をしないであげたい気持ちだ。

そうして、やったことを一緒に謝りにいこうと思う。

 

なぜなら、私がそうして欲しいからだ。

間違っているとわかっていても、そうしなければいられない気持ちがわかるのだ。

 

もしも、大切な人が苦しんで居たら、何もかもを粉々にしてもいいと、言ってあげたいのだ。

苦しみの為に死ぬくらいなら、生きるために何かを壊して欲しいと思う。

それもまた、身勝手な考え方だけれど。

 

 

2021/06/06 感想メモ

言ってること
やっぱり意味がわからん

具体性も無いし
当事者性も無いから

まあそうかもなあ〜
以外の感想が出ない

なんだろうか
バーナム効果と同じなんだよな
なんか当てはまりそうな事を書いてるけど
でも漠然としすぎていて
なんにでも当てはまる

愛を一方的に搾取される関係って確かにあるんだけど
愛し方とか愛され方がマニュアル化されていないのに
まるで実在しているかのように話すいい女トークでしかないんだよな

まあ
それで成立する界隈があるのだろうと思うけれど

でもこの人昔はもう少し意地悪な文章書いてた気がするんだけど
ネタが無くなったのだろうか

中身がありそうで何もない

うーん?
私はこれについて何が気になるんだ

いや
考えても仕方がない

まとめサイトなんの為にあるのって聞かれたら娯楽の為だもん

私がつまんないという理由で矯正する必要はないね

いや
つまんないんじゃなくて
文書の目的がわからないと思って考えてしまった

でもまあ

最初から難しい内容を読める人ばかりじゃないし

例えば
自分は搾取されているのかもしれないと考えるきっかけにはなるのか

でもこういう関係って大体が
共依存なんだけどね

一方が悪いってことないし
女の未練も奪われたからってだけじゃないよ
自己の苦痛を正当化するために
あれは愛だったって思いたいんだ

そうじゃないと
自分がただ奪われた惨めな存在だと理解しないといけなくなるからね

男はわからないけど
でも
自分にとって都合の良い女をいい女だと無自覚に思う男は居そうだ
きっとそういう奴は
結婚したら
女をお母さんとして自分は子供みたいに振る舞うのかも

愛し方ね

そんなのがあるのなら
学校でちゃんと教えるべきだと思う

もう少し
心理学の勉強が進んだら
学校で子供に教える事が出来るくらい 体系化されるだろうか

いや
しかしそれには
心理学と脳科学の協力が必要だろう
心理とは反応なんだ
考え方を変えてコントロールするってのは根性論だもん
だから精神の病は薬での治療が大事

脳内の反応と外に出るもの
両方がもっと理解が進めば

本当はもっと幸福になれた人を救えるのではないだろうか

ヒーローが居ない世界

誰かが救われる話は嫌いだ。

 

その思想が嫌というわけじゃない。

でも、自分が必要な時にはいつも誰も居なかった事を思い出してしまうから、悲しくなる。

適当に生きてきたわけではないつもりだ。

生きるために、必死に願ったり、誰かに手を伸ばしたり、努力したりしてきた。

でも、伸ばした手を取ってくれる存在は居なかった。

 

この世にヒーローはいないのだ。

現実に正義は必要ないから。

集団にとっては正しさよりも調和が大切にされる。

もしも正義の味方がいたら、やはりアメコミヒーローのように苦しむ事になるだろうね。

 

それでも救われたいのだ。

だから、ヒーローが居なくたって幸せになれると思わせて欲しい。

 

何もかもが粉々になって、どうしようもなくなっても人は幸福に生きられるのだと思いたい。

 

私の好きなアニメに妄想代理人という物がある。

 

あの物語に出てくるのは悪役と、残りは矮小な一般人だけだ。

ヒーローは居ない。

ヒーローの役割をこなそうと努力した一人は、現実から見れば頭のおかしい様子になっている。

あの物語の視点はどこまでもドライで、登場人物に物語的な誤魔化しを許さないのだ。

 

でも、だからこそ物語を思い出す時、救われたような気持ちになる。

どうしようもない人間が、そのまま不格好に生きている現実がそんなに悪く無いと思えるから。

 

 

引きこもりだった頃に、眠る前、神に祈った事がある。

すべてが苦しくて仕方がない状況から、なんとか助けて下さいと本気でお祈りをした。

もしかしたら、何かきっかけが見つかるんじゃないかと願っていた。

 

しかし朝になり、何も変わらないままそこで目が醒めた。

その時静かに失望した。

本当の本気だったからね。

 

そうして私は感情とはなんの影響も及ぼさない物であると考えるようになった。

願いなど価値がない、行動こそが意味があるのだと。

 

その後に、行動も能力がない者は何をしても意味がないと理解するのだけれど。

 

こうして書くと、人生で失望してばかりだな。

そのおかげで、何をするにも無駄だと感じて生きている目標も見つけられなくなってしまった。

 

だって、願いも努力も無駄だと自分で証明してしまった。

 

他にやっていない事はあるだろうか。

自分が出来る事はすべてやった上で、失望しているのだから合理的だと思うのだけれど。

 

でも、死ぬことが出来ない以上、何かはやらないといけない。

他にやっていない事があれば良いけれど。

 

自分で言うのもなんだが、私はネガティブなわけではない。

ただ、とりあえず言っとけば良いみたいな、努力信仰とか励ましとかが大嫌いなだけだ。

 

逆に、やってもいないのに無理だと言うやつも嫌いだ。

でも、修造理論は危険なので真似はしないほうが良いと思う。

次のチャレンジで壁が壊れるとしても、そのパンチを打って死んでしまっては意味がない。

例えば私のように、心が本気で折れる事になる。

 

まあ、だから、生きているのが辛いわけだ。

本気で生きるもんじゃないな。

 

それとも、自分が生きるのに向いてないのかもな。

嫌な記事を読んだ話

気分にムラがある人が職場に居て、どうしたら良いのかという質問に答えた記事があった。

 

自分も、体調が不安定で集中力に大分影響があるので役に立つかと思い、読んでみたが建設的な事はひとつも書かれていなかった。

 

平均点を常に出せる人間は、学習をした知識で結果を出していて偉い。

ムラがある人は、気分で仕事をしているので困ったものだ。

そういう人間は壁にぶつかるまで待つしかないという、ステレオタイプな分析かつ世間話だった。

 

 

これが例えば、知り合いとの雑談での内容なら別に構わない。

しかし、まるで内容が存在しているかのようなタイトルで、お金を貰って書いている記事だと思うと腹が立つ。

 

気分を意思でコントロール出来ると考えるのが、旧時代的な考え方だ。

自分の体調であったり、食べる物で脳内物質に変化があるんじゃないかと、苦慮している私をバカにしているとしか思えない。

 

それとも、何も考えずに書いているのだろうか。

 

正直、私のこんな愚直も文章に書くようなものではないだろう。

ただ、ちゃんとした個人的な理由がある。

 

この文章が、人が読める場所にあること。

そして、誰かが読んでいる。

もしくは読んでいないと確認出来る事が大切なのだ。

 

人に伝わるか伝わらないかは関係ない。

ただ、このブログを誰も読んでいないのであれば。

私は、個人的な感情に対して誰にも文句を言われる筋合いはない。

 

そう言える状態が大切なのだ。

2021/06/04

自分の幸福の形を決めて、それを追いかける生き方は、滑稽だが美しい。

 

逆に目の前の幸福を掴んで生きるのは、美しくない。

けれどもその方が幸福だ。

 

何かを追いかけていた時、ようやく私は死にたくないと思えるようになったんだ。

けれども、今の私はそうではなくなった。

生きる理由が無くて困っているし、毎日ハンバーガーを食べたいとしか思っていない。

 

私の気持ちが折れた出来事の是非なんかどうでもいいのだ。

正しいも正しくないも聞きたくもない。

 

ただ、私の望んだ事が駄目だったなら死ぬしかないというような事で。

しかし死ぬこともできなかったのだから、人生はどうしようもないという結果を飲み込んで生きるしかないのだ。

 

別に問題は何もない。

それは生き方の問題であって、生死に関わる事ではない。

 

ただ私が、波に流されるだけの生き方を見て、醜いと感じるのだ。

そのような人生を生きるのであれば、なにかのシステムでも組んで、ロボットが代わりにやれば良い。

それは、私がしなくても良い。

 

そう思う。

生きているというのは、状態であって目的ではない。

状態を維持するのに意思は必要ない。

判断があるだけでいい。

望みはいらない。

だから生きているだけでは、自分が必要ないのだ。

 

だから、自分を必要とするには望みが必要だ。

 

私が欲しい望みは簡単だ。

誰かを好きになって、そしてその人間を特別扱いする。

そうして、その人間が私を拒絶したら、殺しても良いという許可をもらいたい。

 

そんな事を言っても私は人を殺せないし、全くの茶番だが。

少なくとも上辺ではなく、誓える人間に出会いたいのだ。

 

そんな人間がいたら、生きていてよかったと思うかもしれない。

 

自分の物語に閉じこもっているような奴ではなくてね。

感情に酔って発言するのは簡単だけれど、そういうやつは、言ったことを忘れるから嫌いだ。

 

 

まあ、しかし。

私こそがそうなんだと証明してしまったのだ。

 

私は、きっと失敗したら自分は死ぬだろうと信じていた。

だというのに生きている。

それ自体が、自分が生きている事を絶望的な気分にさせる。

 

そう、だから、生きている理由が必要だ。

 

悲しい日の話

生きていると悲しい気持ちになることがある。

それは例えば今日の今とか。

 

昔は週に一度は生まれてきた事を後悔していた。

理由はいくらでも出てくるが、それでいて理由なんてなくても同じなのだ。

 

自分がここに存在しているという状態に耐えられないと感じていたからだ。

私はこれを、自己の精神的問題を探す事で解決しようと試みた。

心理について勉強したり、調べたり。

 

そうすることで、精神の欠陥を埋め立てようと考えた。

そうすれば、きっと自分から苦痛は消えてなくなると思ったから。

 

そうしているうちに、心の淀はいくらか流れ出ていった気がする。

自分のあり方や、考え方に、疑問を持つことは少なくなった。

 

しかしそれで人生が軽くなったかと言うと、そうでもないのだ。

 

今日の私ときたら、今にも泣き出しそうなくらい悲しくて仕方がない。

そして外で風が吹く音が、猫の悲痛な鳴き声と違うのかわからない幻聴を聞いて、余計に落ち込んでいる。

私は疲れると幻聴を聞く。

シャワーの流れる音がメロディになって聞こえる事もある。

そこに音楽が流れていないと知っているのに、音が聞こえてくるのだから不思議だ。

 

まあ、ともかく今日の私は悲しむ理由なんてどこにもないのだ。

強いて言うなら、仕事で凡ミスをしていた事とか、忘れていた解決をしないといけない事が頭を悩ませているけれども。

 

しかしそうではないのだ。

 

おととい、駅のトイレに全てのカード類を流しかけた時よりはマシなはずなのだから。

 

結局の所、苦痛を感じるのは肉体があるからであり、感じるのは脳のご機嫌次第なのだろう。

 

最近の私と来たらこの肉体を着ている事自体が耐えられない。

着ていると感じるくらい違和感がある。

体の色々なところが少しずつ痛い。

 

そして今の私は悲しい。

 

しかし、もしも体の状態が万全なら、全てにおいて取るに足らないと感じる事ができるんじゃないかと思っているのだ。

 

そうなったらいいなと思う。

肉体を脱ぎ捨てないといけなくなるけれど。

ビリビリに破いて。