夜と霧から考える人が苦しい時最後にできる事
これはいつか書こうと思っていた内容だ。
最近自分の精神の状態が特に思わしくないので、まとめる意味も込めて書いてみる。
普段の文章は人に読ませるつもりがないけれど、これは必要な人に届けばと思う。
夜と霧は精神科医のフランクルが書いた、ドイツの強制収容所の体験記だ。
つらい目に合ったはずだというのに、非常に淡々と描写されているのが凄い所だ。
また、自己の精神状態に対する観察も冷静で客観的に書かれている。
この物語の中で有名な考え方がある。
世界に何かを望むのではなくて、世界が自分に何を望んでいるのか、考えなさいと言うのだ。
難しいことではなくて、この世界で自分が果たしたいと思う事を指している。
家族を守る事であったり、自分が叶えたい夢であったりだ。
極限状態で明日の生死もしれない中で、彼がこの考えを疲れ果てた囚人の仲間に伝えた所、彼らは希望を取り戻して生き残る事が出来たそうだ。
その話を美談として、人は極限状態でも希望があれば生き残れると教える物も多い。
彼らが生き残った事は素晴らしい事だ。
ただ、それでも、それは成功者バイアスでないとは言えないだろう
苦しみの只中にいる人には、救われた人の言葉は届かないのだ。
特に、救われる希望が無い状態でいる時に、こうすれば救われるという言葉は毒でしかない。
助かりたいと思うほど、苦しみは増すのだ。
場合によっては、悪意のある人間の言葉によってもっと落ちてゆく事もあるだろう。
だから、少し違う考え方をしてみようと思う。
強制収容所での体験は全ての絶望の条件を有している。
命の危機にさらされ、人として扱われず、明日がどうなるかわからず、自分では状況をどうすることも出来ない。
ここで狂わずにいられたら、それだけでも凄い事だろう。
しかし、フランクルは狂わなかった。
彼が生き残ったのは、きっと偶然か、それとも彼が笑い飛ばした神の思し召しだろう。
考え方次第で人は生きたり死んだりしない。
しかし、彼の考え方は苦しい状況にいる人間に必要になるはずだ。
私とかね。
さて、役に立つだろうか。
彼がしていた中で一番簡単なのは、妄想だ。
妻と幸せに過ごしている情景を思い浮かべる事。自分がここでの体験を人々に語る講演会を行っている姿を想像する事。
バカバカしいと思うかもしれない。
正直、私自身がふざけるなと言いたい気分だ。
そんな気休めで何が良くなるっていうのだろう。思考で世界は変わらないのだ。
しかし、それでも思考から全てが始まるのも確かだ。
幸福を夢見ないことは、苦痛を許しているのと同じだ。
私も最近は現実に押しつぶされて、夢を見なくなっていた。
荒唐無稽な物でもいいから、考える所から始めるべきかもしれない。
もうひとつ彼が行った事は、他者を思いやる事だ。
とはいえ少なくとも私は、孤独を感じている。同じ苦しみを分かち合っている仲間は、見当たらない状況だ。
だから少し、捻ってみよう。
この本を読んだときに驚いた事がある。
彼は仲間と話し合う機会があったときに、考えを披露する。
その言葉によって、仲間は涙して幾分か救われるのだ。
その時にフランクルはこう考えた。
自分にはこのようにして、何かをできる機会が他にもあったのに今この時までできなかった事を申し訳なく感じたと言うのだ。
収容所のなかで人は、苦痛と恐怖と苛立ちに苛まれている。
しかし、彼は人間らしい心を失わずに他者を思いやる事が出来ていた。
人によっては上手く想像出来ないかもしれないが、苦痛と恐怖に苛まれていると、他者など二の次になる。
それどころか、感じる苦痛と相まって煩わしくすら感じるだろう。
人としての心を保つのはとても難しいのだ。
先程も書いたように、私は思いやる相手を見つられない。
だからここで重要なのは、みすみす人間性をうしなわないという事だ。
夜と霧の中で、フランクルはこう書いている。
どのように苦しめられたとしても、全てを奪われたとしても、人は現実に対して「どのように振る舞うのか」という自由だけは奪われない。
その振る舞いが人間性であり、人の尊厳である。
私の主観も入っているがこのような内容だった。
まあなんと美しい言葉か。
例えばこれを言ったのが、どこの馬の骨ともしれぬ存在なら私は一笑に付しただろうな。
しかし彼は実際に見たのだ。
空腹で、自分が死ぬかもしれないような状況で他者にパンを分け与える人を。
もし本当に苦しい人が居たら、忘れないで欲しい。
自分では何も選べない時でも、自分がどうしたいのかと考える事。
自分は現実に対して、どのように振る舞う人間なのかは選べるのだ。
何も変えられないかもしれない。
私も沢山の事を変えられなかった。
それでも、全ては思考から始まるのだ。
最後にもうひとつ、私が一番覚えている場面の事を書こう。
収容所から生還したある日、フランクルと仲間がまだ新しい麦の芽がでた畑の近くを通りかかった。
そうすると仲間は、わざわざ畑の中を歩いて麦の芽を踏み潰してゆくのだ。
それをフランクルが咎めると仲間は「自分がは何もかもが奪われた、それなのに他人から少しでも奪うことは許されないのか!」と憤るのだ。
これに対して、フランクルは精神的ショックによる原始性の発露だと書いていた。
でも私は、麦を踏みつける彼の気持ちがわかる気がする。
きっと彼はそれを見た時、奪われなかった未来の幸福な姿を思い浮かべて、やりきれない気分になったのではないだろうか。
もしも、という言葉は一番人を苦しめる。
でも、もしもその事で彼の気持ちが救われるなら、私は邪魔をしないであげたい気持ちだ。
そうして、やったことを一緒に謝りにいこうと思う。
なぜなら、私がそうして欲しいからだ。
間違っているとわかっていても、そうしなければいられない気持ちがわかるのだ。
もしも、大切な人が苦しんで居たら、何もかもを粉々にしてもいいと、言ってあげたいのだ。
苦しみの為に死ぬくらいなら、生きるために何かを壊して欲しいと思う。
それもまた、身勝手な考え方だけれど。