kutidasikutibasiの日記

個人的な日記

実力も運のうち?岡田斗司夫の配信の感想

今日の配信で岡田斗司夫が、マイケル・サンデル教授の著書「実力も運のうち。実力主義は平等か」についての解説をしていた。

 

それについて、個人的な考えを記録しておく。

私にしては久しぶりに、起承転結がつくかもしれない。

 

まずサンデル教授に関してだが、私は彼の著書「これからの正義の話をしよう」を読んだことがある。

それを読んだ印象では、彼は非常に真摯に本当の平等について考えている人だと感じた。

そこで今日の解説を聞いた感想としては、そういう方向に行ったのかというものだった。

 

彼はこの著書のなかで、タイトルのように才能や実力は運であると、明確に主張しているそうだ。

何かが得意であるということ、継続して努力ができる事、その全てが生まれ持った特性である、と。

 

岡田斗司夫は嬉々としてサイコパスを自称しているし、残酷な事も言うが、少なくとも自己の傲慢さと他者の傲慢さを平等に裁く視点を持っているまともな人間だと感じる。

自分の意見を押し通す為に誤読はしない人だから、解説はそこそこ正確だろう。

 

そんな彼に言われたら、まあそうなんだろうと思うしかない。

 

しかしそのような考え方は好きにはなれない。

それは、その人自身の人生の否定になってしまいかねないからだ。

実力が生まれついてのものならば、人生の結果は生まれる前に決まっている事になる。

それは、産まれたくなかったという言葉の肯定になってしまう。

 

正直私も自分自身が産まれてここにいるというのが間違いであって、そのような間違いを生み出した世界そのものが憎いという感情がある。

しかし、憎しみとは望みがあっての物だ。

人生の苦しみが、ただ肯定される事を望んだわけじゃあない。

 

 

しかしまあ、現実はもっと残酷だ。

サンデル教授は、そのような実力主義、努力主義の世界は差別を作り格差を広げると指摘している。

 

実力が努力によって得られるのであれば、それを獲得していない人間は怠慢であるという事になる。

そうなれば、社会的地位が低いのは自己責任であり、援助する必要がないという結論になってしまうからだ。

 

これについて、岡田斗司夫は能力があるものは、無いものを差別するという説明をしていたが、それは少し違うと感じる。

能力が無いものも、自身を差別してしまう事があるからだ。

 

それには、公正世界仮説という人間心理が関係している。

公正世界仮説というのは、ざっくり説明すると、適切な努力には適切な結果が得られるという考え方だ。

人間経験を積めば、努力が裏切る事もあると知っている。

それでも、失敗した時はこう考えるのではないだろうか。

自分のやり方が間違っていただけで、上手くやっていれば結果は違ったかもしれないと。

 

世界は不平等だ。

しかし、人間の心は自分に不幸が振りかかった時に理由を必要とする。

その一つが結果と努力が結びついているという考え方だ。

誰だって、自分の人生に特に理由もなく苦痛が襲って来たとは、思いたくないからね。

 

だから、才能ある者の努力が称賛されるのは、才能が無い物も望んでいる事なのだ。

そうすることで、自分の人生に夢を見る事ができるから。

 

 

しかし、実力主義は美しいことだけではない。

さっきも書いたように、社会的弱者が虐げられるのを肯定してしまう。

 

それの解決法として、能力の格差がある事を肯定しつつも、自己の立場に固執するのではなくて、もっと大きな共同体の一部である事を大切にしよう!

という内容らしい。

読んでないから正確な所はわからないが

岡田斗司夫氏の解説によると、そうらしい。

 

サンデル教授は頭が良い人なので、もう少し具体的な内容を書いている気もするが、本の評価に結論がわかりにくいというものがあるのであれば、実際漠然とした結論なんだろうな。

 

なので、私がこの問題に対する個人的な考えを書いてそれを結論としようと思う。

 

この才能があるなしという前提が、いらないと思うのだ。

ものすごいそもそも論を話すと人間の評価軸はマッチポンプなのだ。

 

今、才能があるなしを決めているのは、この社会の中で上手くやっていけるかが基準となっている。

しかし、元を正せば人間が生きていく為に、集団で行動するようになり、村が出来て街が出来て、産業革命が出来てという流れから、価値観が構築されていっている。

 

そして、人間がこのように文明を発展させていったのは元を正せば生存の為だ。

そして、もっと話をずらすが、生物学で良く言われるが種の生存にとって重要なのは多様性だ。

特定の能力をもつ者しか必要でないという考え方は1面から見た考え方でしかないのだ。

 

とまあこんなふうに書いたが、

そんな事を言っても、生活は楽にならないんだよ!というのが弱者の本音だな。

 

でも、そもそもの所から話したのはこの才能を過剰に上げる価値観が必要なのかという事を考えて欲しかったからだ。

 

私は適材適所という考え方が好きだ。

社会というのは、色んな役割をこなすものがまんべんなくいるから回っているのだ。

才能ある者も、それを必要とする無能がいてこそだという事を忘れてはいけない。

カリスマもひとりでは、必要のない能力なのだから。

 

だからまあ、結論としてはサンデル教授の似たような物になるかもしれないな。

 

多く持っている人が、持ってない人にあげればいいのだ。

平等にする必要は無い。

でも苦痛は取り除いてあげるくらいの事が必要だと思う。

 

それは、ひいては自分の生活や社会を守る事にも繋がるのだから。

情けは人の為ならずという事だ。