2021/06/04
自分の幸福の形を決めて、それを追いかける生き方は、滑稽だが美しい。
逆に目の前の幸福を掴んで生きるのは、美しくない。
けれどもその方が幸福だ。
何かを追いかけていた時、ようやく私は死にたくないと思えるようになったんだ。
けれども、今の私はそうではなくなった。
生きる理由が無くて困っているし、毎日ハンバーガーを食べたいとしか思っていない。
私の気持ちが折れた出来事の是非なんかどうでもいいのだ。
正しいも正しくないも聞きたくもない。
ただ、私の望んだ事が駄目だったなら死ぬしかないというような事で。
しかし死ぬこともできなかったのだから、人生はどうしようもないという結果を飲み込んで生きるしかないのだ。
別に問題は何もない。
それは生き方の問題であって、生死に関わる事ではない。
ただ私が、波に流されるだけの生き方を見て、醜いと感じるのだ。
そのような人生を生きるのであれば、なにかのシステムでも組んで、ロボットが代わりにやれば良い。
それは、私がしなくても良い。
そう思う。
生きているというのは、状態であって目的ではない。
状態を維持するのに意思は必要ない。
判断があるだけでいい。
望みはいらない。
だから生きているだけでは、自分が必要ないのだ。
だから、自分を必要とするには望みが必要だ。
私が欲しい望みは簡単だ。
誰かを好きになって、そしてその人間を特別扱いする。
そうして、その人間が私を拒絶したら、殺しても良いという許可をもらいたい。
そんな事を言っても私は人を殺せないし、全くの茶番だが。
少なくとも上辺ではなく、誓える人間に出会いたいのだ。
そんな人間がいたら、生きていてよかったと思うかもしれない。
自分の物語に閉じこもっているような奴ではなくてね。
感情に酔って発言するのは簡単だけれど、そういうやつは、言ったことを忘れるから嫌いだ。
まあ、しかし。
私こそがそうなんだと証明してしまったのだ。
私は、きっと失敗したら自分は死ぬだろうと信じていた。
だというのに生きている。
それ自体が、自分が生きている事を絶望的な気分にさせる。
そう、だから、生きている理由が必要だ。