kutidasikutibasiの日記

個人的な日記

牛人間が一緒に暮らすようになった世界の話【ヴィーガンについて思う事】

ある日私はこんな事を考えた。

牛が人間と同じような知性を持つようになり、権利も同等に持つようになった未来の話。

 

友人である牛人間のひとりがこう言うのだ。

あなたは過去に私の同族を食用として殺害していた事について、どう考えているのか。

罪悪感はあるのか。

そう聞かれる。

私には返す言葉が無い。

もちろん、謝罪をする事は簡単だ。

しかし、私がその文化に対して容認していた事について言い訳する言葉がない。

私にとっては、当たり前であっておかしい事ではなかったのだから。

 

さて、こんな事を書くとヴィーガンに対して好意的だと思われるかもしれないが、私は肉食賛成派だ。

お肉大好き。

 

そして現時点でのヴィーガンに対しては、そんなに好感を持っていない。

例えばこんな話を聞いた。

あるヴィーガンの人が、自分の飼っている猫に対してもそのような食事を提供していると言うのだ。

人を指した指で、自分を刺しているとしか思えないのだが、わかっているのだろうか。

自己都合で動物を飼育する事を、エゴと捉えていない事。あまつさえ、自己都合で安全性が不明な食生活を送らせている。

これでは、ヴィーガンがきちんと思考していないというように捉えられるだろう。

 

彼らの言い分としては、自分の倫理観にそって大切にしていたと言うのだろうけれども。

それを言うなら、畜産動物もそれなりの倫理観にそって飼育されているのだ。

 

自分の勝手な倫理観で他人を非難するなら、自身も非難されてしかるべきだろう。

 

そんなわけで、ヴィーガンは馬鹿であると締めた方が一部の人間には受けるのだろうが、別に私はそうとも思っていない。

 

ヴィーガンに対して、冷ややかな視線を送っている人々はこう思っているのだ。

そんな事を言っても仕方がないと。

人間は肉食をやめられない、だからそれに対して非難するのは無駄だと。

 

でも私は、なんというか、文化を変えられるなら変えられる所を見てみたいのだ。

牛人間は生まれなくとも、畜産動物が居なくなった未来はあっても良いだろう。

 

しかし、それに対する主張が豆で十分だからってのは納得しないけれども。

 

ここで話が逸れるが、癌を防ぐ為には焦げたものを食べてはいけないという理由を知っているだろうか。

大概の人は、食事で得ているのはエネルギーだけだと考えているが実はそうではないらしい。

私も専門ではないので詳しくないが、動物は摂食した物の細胞を古くなった細胞と置換しているのだ。

だから、焦げた物を食べれば傷ついた細胞を体に取り込む事になる為にエラーが出やすいらしい。

何を食べるかはとても重要なのだ。

だから、私としては特定の物だけを食べるとか食べないとかは、恐ろしくて出来ないのだが…

 

しかし、草食動物は草だけを食べて生きているわけで。不思議だね。

 

今はバイオ肉なんかの研究も行われている。

そういう現実的なところから、未来が変わっていったら面白そうだと思っている。

 

でもまあ、こういう価値観にまつわる問題は話を転がして得する人々によって、動いていくんだろうな。

それはなんというか、ちっとも、面白くないね。

コーヒーで困った話

私はコーヒーが苦手だ。

 

味とか匂いとかではない。

味も匂いも好きなので、もし問題がなければ毎日飲みたいと思っている。

 

問題は、コーヒーを飲むと全身が痛くなるという所だ。

この痛みはうまく説明が出来ない。

強いて言うなら、前日に全力で運動した際襲われる筋肉痛に近い。ともかく、動けない程ではないが、耐えるには些かきつい痛みだ。

理由は不明だが、おそらくカフェインのせいだとは思う。

無水カフェインが入った痛み止めでも似たような状態になるからだ。

しかし、その他の緑茶や紅茶あまつさえエナジードリンクを飲んだ所で平気なのにコーヒーを飲むと如実に具合が悪化するので、それ以外の要因かもしれない。

 

 

今日も体が痛い。

朝にコーヒーを飲んだからだ。

 

最初に書いたように、コーヒーの味は好きなのだ。でも飲むと、必ず体に影響が出る。

じゃあなぜチャレンジするのかと言えば、コーヒーを飲むのにもメリットがあるからだ。

 

コーヒーを飲むと、他の人々と同じように頭も覚醒する。

仕事を行うのには都合がいいのだ。

紅茶も緑茶も、飲んでもそのような効果は現れない。

エナドリなら効果はあるが、私は砂糖たっぷりのあれがそんなに好きではない。

あと高いしね。

貧乏なのだ。

 

そんなわけで。

もしかしたら耐性ができるのではないかと、一縷の望みを託して。

今日も1杯に満たない量のコーヒーを飲んでから仕事に出たのだった。

 

 

かけがえのない物が存在しないこの世界

私は、あまり自分の考えを人に伝えるのは好きではない。

なんといわれるか予想がつくし、面倒な奴だと思われるのもごめんだ。

 

最近の悩みは、生きている理由が無くて困っているという話だ。

私が生きていてもいなくても、誰かが困るわけでもない。

だから、理由というのは自分の中から出てくるものでないといけない。

 

例えばこのような事を言うと「あなたを大切に思っている人がいるから、その人の為に生きなさい」というような事を言われたりする。

 

しかし、私はその考え方はなんというか自分にとって都合の良い解釈であると思うのだ。

自分以外の人間にとって、自分自身がかけがえのないものであることはない。

それは、健全に生きている人間にとってはそうでなくてはいけないからだ。

 

例えば、私には兄弟のように過ごした一匹の猫が居た。

彼女は、私が小学生くらいの頃に家にやってきて、私が大人になるよりも先に大人になって、そして亡くなってしまった。

 

とても大切な存在だったし、今でもそう思っている。

家族でペットを飼うのが初めてだったこともあって、猫にとって万全な状態で飼育できなかったかもしれないという後悔もある。

もっと、いろんな事をしてあげたかったと、思い出して悲しくなることもある。

 

しかし、そうだからといって私は彼女が居ないこの世界で平気で生きているのだ。

普通に生活ができて、笑うことができて、おいしいご飯をお腹いっぱい食べることができる。

動けないほど落ち込んだり、泣き出したり暴れたりしない。

私は自分の人生において、彼女が必要不可欠であったことを、どのようにしても証明してあげることはできないのだ。

少なくとも、自分が健全に生きたいと願う限りは。

 

だからと言って、何かを失ったことに対して延々と悲しんでいることはただの自己憐憫でしかない。

私も、何年も前に失ったペットの事で精神に問題をきたしている人間を見たら、めんどくさい奴だと判断するだろう。

 

この世にかけがえのない人など居ない。職場でも、国でもどんな特別な能力がある人が失われても、世界は滅亡したりしないのだ。

しかし、それじゃあ愛とはなんなのだろう。

 

この問題に対して、感情とはただの生理現象であるので、そのように考えることに意味は無い。とか言われたいわけではない。

逆に、現実とはなんと不条理なのか!と嘆いて欲しいわけでもない。

 

私はもっと傲慢だ。

私は、お姫様が好きだ。

それは、今はやりの強くて現実味のある女性ではなくてもっと、特別な存在だ。

彼女がさらわれることは世界の危機であって、彼女の涙一つで世界は滅亡するのだ。

それはきっと美しい。

 

私は証明して欲しいのだ、この世にかけがえのない物が存在していて、誰かが生きるときに誰かの存在は必要不可欠であって、そうでなければ人は生きられないという所を見たいのだ。

 

このように、私はどうしようもないことについて考えていることが多い。

しかし、話しても面倒な話だとごまかされるような気がして、人に話したいとは思わない。

それに、共感して欲しいわけでもない。

 

そうじゃなくて、スーパーヒーローが現れて、ああ、私が間違っていたんだと、そう思わせて欲しいのだ。

 

自分自身でも、かけがえのない物を探していたのだが、失敗してしまった。

それを失っても、私は死なずに、粉々になったりしないで生きている。

しかしまあ、私はそのせいで生きている理由をなくして困っているのだった。

そう考えると、私がこのまま新しく生きる理由を見つけられないまま死ぬことがあれば、この世にかけがえのない物があるという証明になるのかもしれない。

 

でもな、悪いけれども。

私は夜を儚んで死ぬほど、ロマンチストでもないのだなこれが。